ベルリンの壁

 

 第二次世界大戦後のドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって敗戦後、2つのドイツに分断された。しかしベルリンだけは重要都市ということで、4ヶ国の分割統治という体制をとることとなった。ベルリンは街の中に境界線を引き2つの国、資本主義と社会主義が混在する街となった。西ドイツは暫定憲法として、国境の分断により東ドイツに編入されたドイツ人も、亡命を求める者は、西ドイツ国籍と支度金100マルクが与えられた。アメリカ側が統治する西ドイツから支払われるこの支度金は、ソ連側への嫌がらせという表現を使ってもよく、ツァイス首脳陣の西側連行などと併せ、冷戦の火種となった。
  社会主義に馴染めなかった東ベルリンの市民は、自由の世界を求め西ベルリンへ亡命する者が後を絶たなかった。労働力の放出を恐れた東ドイツは一夜にして東西ベルリンの境界に鉄条網を引き、僅か3日後には長さ155km、高さ4.1mのコンクリート製の壁を造り上げた。これが東西ドイツを分断したベルリンの壁である。壁の影響で道路193本、地下鉄4路線が分断された。しかし、この壁が出来ても亡命者が無くなることはなく、東ドイツ兵土らには「越境しようとする者は必要とあれば射殺せよ」との命令が出されていたので亡命者は命懸けであった。そもそも社会主義のルール上、亡命は認められず、死刑相当のペナルティであった。1961年8月14日から28年間の間、壁を越えて越境した者5043人、国境での逮捕者5221人、射殺を含む死者80人、火器による負傷者は118人であった。
  1989年、転機が訪れた。東ドイツと同じ社会主義国だったハンガリーがオーストリアとの国境にあった鉄条網の撤去を始め、ハンガリーとオーストリアの移動が容易になった。このため、東ドイツ⇒(旧)チェコスロバキア⇒ハンガリー⇒オーストリア⇒西ドイツという、ベルリンから右へ時計回りにグルっと廻る移動方法により、東から西へは、列車や車で容易に移動可能となった。従って、東西を仕切るベルリン壁の存在意義が無くなってしまったのだ。

 

 

 

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