2つのツァイス

 

 アメリカ軍によってハイデンハイムに移送させられたツァイス従業員たち、イエナに残されたツァイス従業員たち、このように東西ドイツに2つのツァイスが存在することとなった。
  ハイデンハイムに移送させられた従業員たちは、ひとまずここでレンズの生産を開始するが、一年後ハイデンハイムより16km北方の小さな村オーバーコッヘンにあった廃工場を利用し、レンズの生産に取り掛かった。彼らは会社名を OPTik OberkocheN から取ってOPTON、ツァイス・オプトンとした。 
  一方、イエナに残された従業員たちはソ連の指導に基づき、イエナ・ドレスデンなどのツァイスの工場、施設、設備機器、現場担当者(マイスター)、多くの熟練工を接収し、東ドイツ・ツァイスを人民公社組織 VEB (Volks Eigene Bertrieb) Carl Zeiss Jenaとして再出発させることにした。 
  その後、両ツァイスは敗戦の痛手から立ち直り奇跡的な復活をとげ、世界市場で東西ツァイスの製品が競合するまでに至った。
 このころ、ツァイス・オプトンは東のカール・ツァイスと商標権を争うため法廷闘争を起こし、遂に1953年、「カール・ツァイス」の商標を勝ち取った。勝因は、ロシア支配下により貧困だった東ドイツ・イエナより、遥かに信用を勝ち取っていた西側は、製品の輸出による外貨獲得も多く、取引銀行からの融資も円滑に受けられたからである。東側は、ドレスデンで生産中のスクリューマウント一眼レフ「Contax」の商標さえ使えなくなり、ペンタプリズムとコンタックスの合成語であろう「Pentacon」を、1952年10月に商標として申請した。但し、この後に国内出荷品のみ「Contax」の商標が許されるようにはなったが、当然ながら外貨獲得には影響無かった。
 西側シュトットガルトで生産されていた「Zeiss Opton」表記のCマウントレンズは、晴れて「Carl Zeiss」表記となった。これにより、Cマウントレンズには3種類の刻印が存在する。レンズ前枠にCarl Zeiss Jenaと記されているものは第二次世界大戦前から1954年の東ドイツ・イエナ製、Zeiss Optonと記されているものは戦後から1953年の西ドイツ・オーバーコッヘン製、単にCarl Zeissと記されているものは商標を勝ち取った1954年以降の西ドイツ・オーバーコッヘン製である。
 
Zeiss Opton ・・・。第二次世界大戦と東西分断Zeiss を伝えるブランド名なのである。

 

 

 

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