イエナの悲劇

 

 アメリカ軍の移送の終わったイエナには、わずかに稼動するツァイス工場の機械が残された。残された人々は住み慣れた土地に残れたことを喜んだ。なぜならば、占領する国がアメリカでもソ連でも大差は無いと考えたからであった。しかしそれは幻想にすぎなかった。
 一方、ハイデンハイムに連行されたキュップを含むツァイス首脳陣とその家族は、アメリカ軍の管理のもとに廃墟に近い建物に収監された。6月のハイデンハイムはまだ肌寒い上に満足な食料もなく、イエナに残れた人々を羨むしかなかった。しかし、この忍耐が後々からすると幸運であったことに気付くには少々の時間を要した。
 アメリカ軍の去ったイエナには、次いで来たソ連軍の政策により、企業の国営(VEB・人民公社)化が行われ、全ての物は国の財産という観点から、公私の財産を没収されていく。この当時の状況には緘口令が敷かれていた。東西統合後のイエナの人々に尋ねても、当時厳しい秘密警察の管理下にあったこともあり、硬く口を閉ざしている。秘密警察とは、正体を明かさず潜んで常に監視を続け、下手をすると身内や家族に混じっていることも現実にあったのである。
 イエナに残れた喜びも束の間、結局アメリカ支配下の西側の方が良かったとイエナのツァイス従業員とその家族は思い出した。そして、ソ連の政策に耐えられずに命懸けでツァイス従業員1600人が西側を目指し脱走した。
  ソ連はこのイエナから没収した機械設備と技術者336名を、ソ連のウクライナ地方まで移送を行い、ソ連でコンタックスU型、V型のデットコピーであるキエフ(Kiev)を造り始めた。しかし、この当時の労働条件はアッベの財団定款と比べると労働者の福祉、法的立場は悪化しており、厳しい労働条件の基で働かされていた。ただ、悲しいことに、戦争後失業していたドイツ人としては、僅かでも大切な収入源であったのだろう。 
  このようにソ連はドイツから光学技術、ミサイル技術などを得て、宇宙探査技術を積極的に開発、進歩させることに成功した。またアメリカもV2号ミサイルの開発者であるフォン・ブラウン、光学技術者のウィリー・メルテらの協力によりアポロを宇宙に送り出し、宇宙から地球の撮影に成功する。そのレンズはプラナーであったことはあまりにも有名だ。

 

 

 

inserted by FC2 system