D-day

 ソ連のモスクワ侵攻で後塵を拝してしまったドイツ軍であったが、ヨーロッパほぼ全土を掌握し、フランスまでもが占領下に落ちていた。このミリタリーバランスを逆転させるには、大規模な作戦が必要であった。
  そこでアメリカ、イギリス、フランスの連合軍は、ヨーロッパ上陸作戦を企てる。この時代、戦争の主力は航空戦力になっており、航空機の参加は必要不可欠であった。この作戦に使用できる空港は、当時イギリスにしかなく、航空戦力の行動範囲を考えると、ドーバー海峡を挟んでイギリスと向き合うフランスの港町カレーと、約200km南西に下ったノルマンディの二ヶ所が候補に上がった。カレーはイギリスから一番近い攻略ポイントではあったが、近くに大きな港が無く、補給路確保に問題があった為、大きな港のあるノルマンディが選ばれた。連合軍はドイツ軍の裏をかく為、カレー付近には張りぼての舟艇や戦車を配置し、ドイツ軍の偵察機へ意図的に存在を察知させた。また、無線を傍受させ、実在しない部隊を存在してるかのように連絡を取り合い、ドイツ軍を混乱させた。さらに、万全を喫するため、嵐の夜に舟艇を進軍させ、1944年6月6日、ノルマンディ上陸作戦は決行されたのであった。
 ノルマンディには海岸の上にある高台の丘に沿って、堅固な要塞が、ドイツ軍のロンメル元帥の指令で築かれており、そこから上陸用舟艇から降り立つ連合軍兵士に猛烈な砲撃が加えられた。目の前の海を埋め尽くす連合軍艦隊と、撃てども怯むことなく沸いてくる連合軍兵士の群れには、流石のドイツ兵も、戦慄を越えて絶望と恐怖さえ感じたという。写真のようなバリケードで足止めされる連合軍であったが、上陸作戦の時は干潮で、兵士達は岸から200mも離れた水際で上陸用舟艇を降りたという。浜辺にはドイツ軍から発せられた銃弾を遮るものは何もなく、敷設された地雷もあった。丘の上の要塞からのすさまじい砲撃と機銃掃射で、第一陣部隊の70%が死傷を負った。この戦いは、明け方から夕闇まで続いた。しかし、連合軍の兵士の数は圧倒的に多く、ヒトラーからの応援部隊も間に合わない。連合軍の決死の爆破作業によって、防御線を突破した米軍第24師団と第1師団の兵士達は、ついに激戦の攻防を制し、ようやく「一番長い日」は終焉を迎えた。
 ドイツ軍は完全に裏をかかれてしまったのである。この日は後にD−dayと呼ばれ、元々は特別な日=和製英語のX-dayの意味であったが、この日を境にノルマンディ上陸作戦の日の意味を持つようになった。
 5000隻以上の舟艇と20万人の兵士が参加した、戦争史上最大の作戦をフィルムに収める為、戦場カメラマンであるロバート・キャパは、連合軍の第一歩兵師団第16連隊に同行した。キャパは兵師団と共に上陸するないなや、ドイツ軍の設置した鋼の棒を3本組合わせて作られたバリケードの陰に隠れ撮影を始めた。1日だけで連合軍の戦死者約2,500人、行方不明者約10,000人に及んだ悲惨な光景を106枚の写真に収めたが、助手が現像する際に、あまりの光景に冷静さを失ない、ほとんどの写真を駄目にされてしまった。そのうち辛うじて8枚の写真は現像に成功した。この8枚の写真は現在でも写真展などで見ることができ、ノルマンディでの戦いの悲惨さを物語っている。そして皮肉なことに、D−dayでのキャパの写真は、ドイツ製品のコンタックスU型で撮影されたものであった。

提供:岡山県 蜂谷氏

 

 

 

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